このブログでは、当面、以下の作品を掲載する。
1『追想 世界ビジネス紀行』
30代半ばから50代半ばにかけての20年間、紛争処理、契約交渉、会議、講演、監査などで頻繁に海外に出張していた。この紀行記は出張時のメモをもとに、1990年代の6年間、法律専門誌に連載したものである。これから数年かけて全40話を掲載する。
記憶は走馬灯のように巡る。
チボリ公園(コペンハーゲン)では各国の仲間との宴会と花火に酔い、アラスカでは氷河を見学して悠久の時の流れに思いをはせた。香港では目前の虎が消える雑技団のショーを見て、自分の判断力に疑問を抱き、現実とイリュージョンについて数ヶ月間考え続けた。
今でも折にふれ思い出す人たちとの出会いもあった。韓国の尼さんとは忘れがたい「禅問答」を楽しんだ。伝説的な富豪「ドクター・ベッカー」との夕食会ではアート論や哲学や宗教の話に花が咲き、留学先のシアトルでは「風のスミティ」夫妻と心温まる交流があった。みな一期一会の出会いだった。
しかし、楽しんでいただけではない。ソウェト(南アフリカ)のブリキ小屋を見てすざましい貧富の格差に気が滅入り、ヘルメスベルグの古城(ドイツ)では、日本人の仕事観との決定的な違いに驚かされた。ボストン美術館では人生の意味について考え、プラド美術館では死と対峙する機会があった。ローマのカピトリーノ博物館では、心の師マルクス・アウレリウス皇帝とついに対面することができた。
旅を通じて人は多様な風土、文化、異なる価値観、思考様式に出会う。異文化との遭遇は、わたしの未熟な魂を再三揺さぶった。旅は「知の地平線」を拡げ、心を豊かにする。旅の経験を抜きしてわたしの仕事観、人間観、死生観は語れない。旅なくして今のわたしはない。
2『よい人生を生きる知慧』
本書の主題は出だしの一文にはっきりしている。
鋭いビジネス感覚と詩人の魂をあわせ持って、実り豊かな人生を送るにはどうしたらよいだろうか。ビジネス心だけでは貧しい精神生活を送らざるを得ないし、詩人の魂だけでは人生の無常に耐えられない。
30代の半ばに自前の法律事務所を開いてから、ずっと「自営業のストレス」に悩まされていた。数少ない一見(いちげん)のお客相手では、収入は乱高下、経営は不安定である。食べていけるかその保証もない。いつも「明日への不安」を抱えピリピリとしていた。
心の安定を求めて、日本人の人生論を読み漁った。しかし、その多くはセンチメンタルで抽象的で、具体的な処方箋に欠けていた。
行きついたのが西欧の人生論だった。それは先人たちの身近なエピソードにあふれ、徹底的に実践的だった。深刻な悩みに囚われた時に、彼らは「心の持ち方を変えよ」などと抽象的なことはいわない。アランは「体を動かせ、体操をしろ」という。バートランド・ラッセルはこの世をもっと楽しむために、「小さな趣味」をもてという。野鳥でも音楽でも地質研究でも何でもよい。若々しい情熱をもって小さな趣味に熱中せよという。
しかし、どうにもならない事態に直面したらどうするか? 本来は最悪の事態を避けるために事前に手を打つことが必要だが、それをしなかったならもう諦めるしかない。そうエピクテトスは教える。人間にはできることとできないことがあり、できないことを嘆き悲しんでも仕方がない。支配できないことを悩むのは理性人のすることではない。そう突き放す。
ここで引用した人物にはストア哲学に影響を受けた人物が多い。
デモクリトス、エピクテトス、ソクラテス、マルクス・アウレリウス、セネカ、道元、モンテーニュ、ゲーテ、マキャベリ、カント、デカルト、バートランド・ラッセル、ヒルティ、アラン、アンドリュー・カーネギーなど。
ただ「なぜ道元か?」と疑問を持つ読者も多いだろう。彼は日本人離れした恐ろしく理知的な人物であり、その考えはストア哲学と通底する。また、道元の仏道修行一筋のひたむきな態度は、モラリストを彷彿とさせる。それが道元を引用した理由である。
本書は1986年の出版で、30代向けの『思い通りの自分を創る』、50代向けの『プロ弁護士の処世論』と並ぶわたしの『処世論三部作』の二作目である。本書はとくに40代以降の読者に参考になると思っている。ここでは一冊分を一挙に掲載した。
3 『随想ミネルヴァのふくろう』
「ミネルヴァのふくろうは黄昏とともに飛び始める」。ドイツ観念論の完成者ヘーゲルはこういって、人間がいかに歴史の教訓を学ぶのに遅いかを嘆いた。
ミネルヴァとはローマ神話の知恵の女神の名である。女神はふくろうを従えている。
黄昏(たそがれ)も深く暗闇が迫る時になって人はやっと知的成熟に至る。歴史の教訓を思い知る。だが、もうその時では遅い(ただし、解釈に諸説あり)。随想のタイトルは、ヘーゲルの言葉を借り50代後半の自分を重ね合わせた。
扱うトピックは雑多である。
人生の構図、無常を越えて、死との対話、仏教とストア主義、シェイクスピアの視点。
笑う哲人デモクリトス、ソローの『森の生活』、モンテーニュを読む、森の中のデカルト。われわれは考えているか、少数派礼賛、蝕まれる合理主義、連続律とは何か。
他者との軋轢と相克、美談と復讐、支配できること・できないこと、わたしという小宇宙、無知は高くつく。
初出は1998年からの7年間、法律専門誌に連載したエセーである。今から見れば、考えも未熟で文章も荒っぽい。本当に冷や汗ものだが、それが当時のわたしである。
4 『ビジネス弁護士秘伝』
30代半ばから50代の半ばにかけて、仕事の成功例や失敗例を折りにふれメモに書き留めていた。それが50ページほどになったので、箇条書き式にまとめ、所内弁護士の研修用に使ってきた。本稿は、その後の20年間の経験や知見を加えて、アップデートしたものである。
扱うトピックは仕事に即役立つものばかりである。調査技法、質問の仕方、状況の読み方、顧客の信頼を得る方法、考える手順、メモの取り方、予兆の読み方、時間管理、発想法などなど。仕事に通底する原理・原則を扱っているので、一般のビジネス・パーソンにも参考になる筈である。実際、ここで考えたことが、後に出版した4冊の『プロ弁護士シリーズ』のベースになった(『プロ弁護士の「勝つ技法」』、『プロ弁護士の思考術』、『プロ弁護士の仕事術・論理術』、『プロ弁護士の処世術』)。
しかし、ありきたりの仕事の心得がどうして「秘伝」なのか? 研修会での若手からの反応である。よくいわれるように「神は細部に宿る」。「凡事」が実は「大事」と気づくことこそ、「秘伝中の秘伝」である。
なお、本稿では同じ「秘伝」が随所で語られているが、あえてそのまま残してある。それは仕事の現場で同じ問題が繰り返し発生したことの証左である。
5『フラグメンツ(思索の断片) 』
フラグメンツ(fragments)は思索の断片をいうが、「未完成稿」という意味あいもある。ふつうなら公表に至らないラフなスケッチ、いわば思索の楽屋裏である。
本来なら公表するにはさらに詳しい裏付けが必要だが、年齢と体力を考えると時間をかけている余裕がない。だから、思索の断片という形でとりあえず発表する。
思索の対象は日々接する森羅万象全てである。正邪を問わず、美醜を問わず、左右を問わない。見聞きするもの、存在するものすべてが思索の対象となる。びっくり箱のようなもので何が出てくるかわからない。
社会批評もあり、面白ビジネス理論もあり、哲学的断想もあり、死生観もあるだろう。
ただ、いずれにも「強者への懐疑」と「知への憧憬」とが通奏底音として流れているだろう。
ここで、積み重ねた思索は、後に別建ての項目として独立させる予定である。
6 デッサン『箇条書きの力!』
ビジネスの現場では、メール、報告書、企画書、稟議書など文章のやりとりが圧倒的に多い。簡潔で明晰な文章を書くこと、また、書き手の意図を正確に理解することが、日々のビジネスでは欠かせない。文章力と読解力は職業人にとって必須の資質である。
長い間わたしも達意の文を書くために四苦八苦してきた。そして悟ったのは、文章力を養えば読解力もおのずと向上するということだった。そして文章力をつけるためには「箇条書き」がもっとも有効な手段である。
本稿は、文章力、読解力を養う手法としての箇条書きについて考える。
とりあえず思い浮かぶまま扱うトピックを例示する。
- チャーチル首相の愛した「箇条書き」
- 「製品取り扱い説明書」は箇条書きのよいサンプル
- 仕事のできる人の箇条書き できない人のベタ書き
- 公用文の作成要領と階層化
- 「幹番号」「枝番号」で階層化する
- 日銀、官僚、政治家は悪文の三傑
- 箇条書きは思考力を養う。箇条書きには全体を俯瞰する力がある。
- 箇条書き5つの原則
「デッサン」と題したのは、まだ最終構想まで固まっておらず、生煮えだからである。それにもかかわらず、「箇条書き法」は、仕事の現場や日常生活で驚くような効果を発するはずである。デッサンを書き溜めながら、まとまりしだい一冊の本として発表するつもりである。
7 備忘録『コロナとわたしと日本人』
2020年1月、新型コロナの発生が伝えられた時、わたしは簡単なコロナ・メモをつけ始めた。事務所を経営していた時以来の習慣で、「リスク事象」が発生したときは、本能的に警戒モードに入る。その時はよくある感染症の1つかと思っていたが、すぐにカンが働いた。「これは予想以上にきな臭い」。事の重大さに気がついた。仕事にも私生活にも重大な変化が予想された。それ以来、ずっとコロナ禍のニュースを追っている。
多事多端なので、当初、新型コロナのような進行中の話題について、書くつもりは全くなかった。気が変わったのは、7月に入って近隣で感染者が急増し、ひたひたとコロナが迫ってきたからである。容易ならざる事態である。
それなのに政府の対応はいかにも遅く、ちぐはぐで、混乱を極める。コロナ禍は通常の政治案件と違い、一般市民の生命、健康、家族の安寧に直接かかわる。市民の恐れと不安は尽きない。政府はそれを全く理解していない。相変わらず業界内の政治ゲームに精力を費やしている。
「コロナ禍は、一般に思われている以上に、大きな政治・経済・社会の構造変化をもたらす」。これがわたしの現時点での仮説である。今後日本はどう変わっていくのか、一市民の目から見た本音の記録を残したい。それが本稿の狙いである。主なトピックは以下のとおりである。
- 政治はどのようにコロナに対応したか。
- その時々にわたしはどう考え、どう行動したか。
- 日本人はどのようにコロナに向かい合い、行動したか。
